拍手御礼小話

蜜 (土方×千鶴)

桜も散り、緑の葉が茂るころ。
北の大地は短い夏に向け、ずいぶんと過ごしやすい日が続いている。

「あっ、」

夜。文机に向かって草紙の上で筆を動かしていた、土方の手が止まる。
背後から聴こえた妻の小さな悲鳴に振り返った。
姿見の前に立つ千鶴は、顔を顰めて首の後ろを抑えている。

「千鶴、どうした?」
「いえ、その、針を…」
「針?刺したのか?」
「はい。首に…うっかりと」
「首だと?」

彼女の足元には赤紫の朝顔模様の浴衣が置かれている。
それは土方が買ってやった反物で、千鶴は嬉々として「夏用に仕立てます」と三日前から合間を見ては丹精していた。どうやら仮縫いをしていた浴衣を試しに羽織ってみたところ、襟の待ち針を抜き忘れていたらしい。

「見せてみろ」

文机の傍には行燈がある。
明るい方が見易いだろうと、土方は千鶴を呼んだ。大した怪我ではない、と彼女は遠慮したが、深く刺してたらどうするんだ、と土方が一蹴した。
縫物が不得手な訳ではない千鶴は、こんな失態を犯して恥ずかしかったらしい。どこか赤い顔で寄ってきた。土方の傍らに背を向ける形で正座すると、促されて一つに流していた髪をかき上げる。ほっそりとした首と項が露わになった。
どれ、と覗きこめば、白く滑らかな襟足に赤い小さな傷がある。
滴るほどではないが、ぷっくりと紅い血の玉ができていた。

「痛むか?」
「刺した時に、一瞬だけ。今はもう平気です」
「だが、まだ赤い」
「これくらいの傷、すぐに塞がります。よくご存知でしょう…っ !?」

声にならない声が出て、息が止まりそうになる。
土方が彼女の傷を舐めたのだ。
首筋を這う、生温かく濡れた感触が千鶴に言葉を忘れさせた。


「…おまえの血を啜るのは久しぶりだな」

小さな珊瑚のようだった血を舐めとって、出た言葉がそれ。
すっかり血は止まっていたが、名残を惜しむようにぺろりともうひと舐めする。

「ちょ、もう、歳三さんの馬鹿!いきなり何をするんですか!」

千鶴は身を捩らせて恥ずかしがったが、土方の腕がそれを許さない。
くっくっ、と彼女を後ろから抱きしめたまま、吐息と共に含み笑いを零した。からかわれている。千鶴は更に赤くなった。

「馬鹿とは挨拶だな。昔は散々、手前から分けてくれたもんだろう?」
「あれは、必要だったから仕方なく…」
「そうだな。おまえは俺が渇えた時、無様に転がり出す前にいつもすっ飛んで来てくれた」
「…それくらいしか、私に出来ることはありませんでしたから」
「決してそれだけじゃなかったが…でもまぁ、惚れた女にあんな真似されたら、益々惚れるくらいしか男には出来ねぇよな」

土方の声の調子がからかいから優しいそれに代わり、自然、千鶴の抵抗が止まる。
腕の力が緩むのを感じて、ゆっくりと、千鶴が体を振りかえらせる。
彼女を見つめる夫の目は、限りなく優しい。
見つめ合って、ややあって、千鶴が尋ねる。

「…もう、美味しくないでしょう?」
「……そうだな」

土方は頷く。
かつて、山南が今際に残した「東北の水が変若水の効能を薄める」という言葉。
戦火の激しい折には左程その効果は感じられなかったが、それはゆっくりと時間をかけて、土方の呪われた身体にゆっくりと浸み入っていたらしい。千鶴とふたり、穏やかな日々を過ごすようになって暫くして、羅刹としての発作は殆ど起こらなくなった。
今は朝、太陽と共に目覚め、夜は普通に眠る。

まるきり、只人として生きることができるようになった。
尤も、それで彼が削った命数が戻る訳ではないけれど。

「…惚れた女のものとはいえ、美味くは無い。錆びた味だ」

それが正直な感想だった。
その言葉に、ほぅ、と安堵したように千鶴は微笑う。
ふ、と土方も笑みを返した。

在りし日、羅刹に身を落としても力を求めたころ。
衝動のままに、彼女の血を浅ましくも、まるで蜜のように求めた。
それは必要なことだったと思っている。あの日々を、彼女の血を糧に少しでも前に進み戦おうとしていたことを土方が悔いることは決してない。しかし、今は。

それでも、このひとときは。

「勘違いするなよ、千鶴」
「?」
「俺は欲深な質だからな。前も今も、欲しいのはおまえの血だけじゃない」
「…なにが欲しいんですか?」

首を傾げた千鶴に、土方は悪戯小僧のようにニヤリと笑う。
そのまま腕を伸ばし千鶴を抱き寄せる。
あっという声も出ぬ彼女の顎をそっととらえて、そして。

「欲しいのはいつだって、おまえの全部だ」


触れる、くちびるに熱。