箱庭の姫君

2.夜はきたりて

池田屋事件以来、巡察の同行を許された数日後にそれは起こった。
ようやく新選組副長である土方が言ってくれだのだ。
「監視つきならば市中を回って良い」と。

そして、「ついてゆくのなら、三番隊。斉藤が良いだろう」とも。


ライン


人が斬られ命を落とす場面に遭遇したのは、これが三度目だった。
もっとも、正確には一度目はは遺体を嬲っている羅刹たちを物陰から見ていただけなので、死体を見ていたに過ぎない。二度目は池田屋の折だが、あれもかなり暗かったため、色々なものが見えていなかった。

だから、千鶴がこれほどまでに間近に、そしてこれほどに躊躇いもなく人が呆気なく落命する様を見たのは、初めてのことだった。



「幕府の犬共め!」

巡察を終えて、屯所に戻る帰路の途中。
辺りが仄かに薄暗くなった狭い道に、太く低い声が響く。
前から一人、後ろから四人。全員が抜刀していた。

「新撰組と知っての振舞いか」

息巻く浪士たちを前に、静かな声が響く。斉藤のものだった。
応、と前の一人が頷き、斉藤に向かって叫んだ。

「なにが壬生の狼よ、東の畜生如きが帝の膝元を汚すとは言語道断!」
「ならばどうする」
「無論、天に代わって我らが貴様らを誅するまでよ」
「--- それはこちらも同じこと。京を汚す鼠は、斬るのみ」

会話はそれで終いだった。
乱戦が、始まる。すべては千鶴の目の前で起こった。

斉藤の動きは躊躇いがなかった。
まずは前方の一人がこちらに向かってくる。斉藤に啖呵をきった男だ。
気合の叫びと共に上段に構えた相手に対して、斉藤は千鶴を庇う形になった。焦る素振りも見せず、彼はわずかに体を沈ませ抜刀したと思えば、右脇から左上に斬り返す。鮮血が飛び散った。次の瞬間には敵の胴から胸が裂けた。皮一枚というところで斉藤は刀を引く。
どうと音を立てて浪士の体が倒れた。断末魔の声すら無く、敵は絶命している。

一縷の感傷も無く、斉藤は身を翻した。
後方では平隊士が応戦している。まだ戦いは続いているのだ。
血に濡れた太刀を握り、斉藤は走り出す。

ただ、そのとき斉藤は、声もなく微動だにしない千鶴を見止めた。
彼は一瞬眉を顰めるとすれ違い様、言い捨てた。

「道の端に寄れ。あんたの腕では邪魔なだけだ」

その言葉にはっとして、千鶴は慌てて身を引く。当り前の話だった。護身用の小太刀は持っていても、彼らの戦闘に参加できるほどの能力を彼女は有していない。
千鶴は勢いよく民家の板垣に背をつけた。今は、彼の言葉に諾々と従うしかない。
目のみ向ければ、斉藤は既に平隊士に加勢して更に斬っていた。上段から袈裟斬りで一撃。
相手に反撃の隙を与えない動きだ。凄い、としか形容が出来ない。
一瞬で肉を斬り骨を断つその手並み。ほんとうに優れた剣士がその力を余すことなく発揮した時、相手は断末魔の声すら上げずに絶命するのだと千鶴は初めて知った。

相手は五人、こちらは千鶴を入れて四人。
実質、戦力になるのは三人だ。--- やや分が悪い。
数勘定でいえばそうだが、この場でその理屈は通じなかった。
たとえ三が一であろうと、その一が斉藤ならば問題ない。
新撰組指折りの剣豪を相手に選んだことが、この浪士たちの不運だった。

ふと、千鶴は右頬が濡れていることに気付いた。

「あ、」

知らず、小さな音が口をついた。指で触れようとして、すぐに躊躇う。
少し離れたところで四人目を屠った斉藤は修羅のように浅葱の隊服を紅く染めている。彼女の頬は同じもので濡れた…血で汚れたのだ。派手に斬られた男の血が、斬った斉藤はおろか、後ろで立ち竦んでいた千鶴にまで降り掛かったのだろう。

血は一瞬熱く、そして直ぐに冷えてゆく。
千鶴の唇が勝手に戦慄く。

怖いと、思った。



民家に囲まれた狭い路地を舞台に四人屠って、一人は生け捕り。
こちらは死者、負傷者ともに無し ---。

なにごともなく終わる筈だったその日の昼の巡察は一転して三番隊のお手柄となった。
早駆けの隊士から既に報告を受けていたのだろう。生け捕った一人を連れて戻った斉藤らを、玄関のところで監察方の山崎 烝ほか数名が出迎えた。

「お疲れ様です斉藤組長。しかし、局長も副長もあいにく不在でして」

という山崎に、斉藤は首肯して「では、」と今後について相談を交わす。
千鶴はその様子を、所在無く叩き土のところで見ていた。
共に巡察に出ていた平隊士も忙しなく働いている。
こういうとき、まだどういう行動を取るべきか分からず、戸惑う。新選組に身を寄せるにあたって、出来ることをなるべくする、迷惑は決して掛けないことを千鶴は己に科している。せめて、血に汚れた斉藤や隊士たちに手ぬぐいや水を差し出したいところだが、勝手をするにも声が掛けづらい。
逡巡している彼女に、心配そうに尋ねる声があった。

「無事だったか、雪村君。どこも怪我はないね?」

六番隊隊長の井上源三郎だ。
騒ぎを聞きつけ部屋から出てきてくれたのだろう。
そういえば今日は非番だと、朝餉の折に聞いていた。
千鶴はこの人のことが好きだった。井上は若い人間で構成される新選組のなかにあって、比較的年嵩で、比較的温和な人物だ。近藤や土方の信も厚いし、あの沖田も井上には頭が上がらないらしい。
誰も彼もが不審な目を向けた最初期であっても、千鶴の身上と状況に同情し、優しい言葉を掛けてくれた。それにどこか、今は離れている父親に似た柔和な目をしているところに安堵を覚える。

「井上さん…いえ、私は別に」

大丈夫ですと微笑んだ、つもりだった。
しかし千鶴の顔を見て、井上は痛ましそうなものを見る目をした。上手く笑えていなかったらしい。

「君も災難だったなぁ。せっかく町に出られるようになった途端、こんな有様で」
「役立たずで申し訳ないです。京を護る為のお仕事に私が無理に着いて行って、申し訳ないくらいで」
「…しかし、顔色が悪い。刃傷沙汰など慣れぬ者には辛かろう。もういいから、部屋に行って休みなさい」
「だけど私、今日は夕餉のお手伝いをしなければ…」
「誰かに変わらせよう。そんな蒼い顔では飯の匂いなど耐えられまい」
「えっ。でも、あの。みなさんがまだ働いていらっしゃるのに」
「しかし元より君がこの場に居ても仕方あるまい。なぁ斉藤君、いいだろう?」

後半は千鶴ではない相手に向けられたものだった。
山崎と話し込んでいた斉藤は、井上を見て、そして千鶴に視線が移す。
宵闇に似た静かな目に先ほどの修羅場を思い出し、つい身が硬くなった。
しかし斉藤の答えはあっさりとしたものだった。
僅かな間の後、ただ一言、井上に向けて、

「構いません」

それだけで、再び山崎との会話を再開してしまった。
胸が痛む。千鶴は何故か、斉藤の態度に戸を目の前で閉められたような錯覚を覚えた。
おまえなど役に立たぬとはっきり言われたような気になる。
まして実際に今の状況ではそれは言う通りなので、何も言えない。

「ほら、許しも出た。行きなさい」
「…すみません。ありがとうございます」

井上の気遣いはほんとうに有難く、千鶴は深々と頭を下げた。

「ああ、雪村君。部屋に戻る前に、井戸を使うといい」
「え?」

首をかしげた千鶴に、井上は苦く笑って、自らの左頬をついと撫でてみせた。

「顔にね、返り血がついている。…もう随分と黒くなってしまっているが」

言われて、ああ、と思った。一人目を斉藤が斬ったときについたものだろう。
千鶴は改めて斉藤を見る。四人の浪士を切り捨てた新選組指折りの剣士は、顔も衣も、血にまみれていた。


ライン


井戸の冷たい水で顔を清めると、千鶴は早々に床に入ってしまった。
生と死の現場に当てられたのか、確かに気分は悪かった。
ずっと、胃の腑あたりが気持ち悪い。頭の奥も痺れているような感覚もある。井上の言葉通り、これで夕餉の支度などしたら吐いてしまっていただろう。

(…なさけない)

床の中、天井の染みを仰ぎながら、千鶴は思った。
新選組に世話になって数カ月。それでも血や人斬りの場には慣れない。
彼らが京の守護として薩摩や長州と拮抗する限り、こんなことは日常茶飯事だ。
そして経緯はどうあれ、千鶴はなるべく彼らに認められるよう出来ることをしようと誓ったことも事実だ。

--- しかし、無力だ。刀もふるえず、血に酔う始末。

千鶴はとにかく、己が何もできない人間であることを此処にあって痛感する。
井上の心遣いを受ける自分に、きっと、あの場に居た者は皆あきれていただろう。もちろん斉藤も。
いや、そもそもこちらの不甲斐なさなど、彼らにとってはどうでも良いことかもしれない。

(わたしは、無力だ)
(せめて、自分から動けばよかった。戦いは無理でも、皆さんのお世話をすることくらい出来たのに)
(情けない。なんて邪魔な、わたし)

ふと、天井の染みがぼやける。いけない、と堪えるように目を閉じた。
泣くまい、決してこんなことで泣いてはいけない。
目を開けているから涙がこぼれるのなら、目を閉じて深く籠ってしまえばいい。千鶴は布団を頭まで被ると、その中で膝を抱え、ぎゅうと丸くなった。
鼻の奥がつんと痛む。まだどこかで血の匂いが漂っているような気がした。

そのまま二刻ほど、落ちるように眠りこんだ。
井上が取り成してくれたのだろう、夕餉の時間だと起こす声もなく深い眠りに彼女は逃げ込んだ。
正確な時間は分からないが、周囲はすっかり静かで虫の音しか聞こえない。放っておいてくれたことに有難いという感謝の気持ちの反面、存在の軽さゆえに放りだされているのではという不安がもたげる。

今日の有様だってそうだ。誰も彼女が、何も出来なかったことを咎めない。
そもそも、咎めるだけの価値もないのだと千鶴は思う。
所詮、厄介な荷物。いずれ捨てられるだけの---。

そこまで考えて、駄目だ、と首を振る。埒もないことばかり考えてしまっている。
だが、疲労感がそうすることを止めてくれない。
父を探して江戸を出て、新選組の屯所で暮らすようになって数カ月。
なんとか保とうと、ずっと張りつめていた糸が切れてしまったようだった。

ふぅ、と溜息を漏らして吐いた息が乾いていることに気づく。
そういえば朝餉以来、何も飲まず食わずだ。飯粒が喉を通ることは難しそうだが、水は欲しい。
勝手場に水を貰いに行こうと、千鶴は寝床から這い出た。
それくらいの自由は、今の千鶴には許されていた。寝着では万が一に誰かとすれ違った時に失礼にあたると思って、傍に畳んであった黒の羽織に袖を通す。素材は正絹の絽で、これは非常に贅沢な一枚だ。夏に向けて必要だろうと近藤が気遣ってわざわざ贈ってくれた。軽くて優しい素地と近藤の心遣いが千鶴の心を少しだけ慰めてくれた。

雲が月を隠しているのか、障子の向こうは真っ暗だ。音を立てぬようそっと障子を引く。
五寸ほど開いたところで、千鶴の手が止まった。
呆気にとられて目を丸くする。目の前に人がいたのだ。

「…斉藤さん?」

暗くて確信が持てず、つい尋ねる形になってしまう。
そのとき、雲間から月の光が差し込んできた。
ようやく互いの姿がはっきり分かる。やはり斉藤だった。千鶴が起きている気配など分かっていたのだろう、彼はさして驚く様子はなかった。しかし、冷淡というよりは、どこか気まずそうな顔をしている。

互いに無言。虫の音も止み、無音。
根負けしたのは千鶴だ。相手の目を見ぬまま、小さな声で言葉を紡ぐ。
何故ここに、と言うのは失礼かと思い、まずは今の自分の有様を説明しようと思った。

「あの、私、ただお水が欲しくて」
「……」
「逃げ出そうとか、そんなつもりじゃ決してないんです」
「……」
「…斉藤さん、なにかご用でしょうか…?」
「……」
「私、またなにかご迷惑を」
「…違う。そうではない」

冷めた声が否定した。ようやく応えがあって、千鶴は少し安堵した。
そんな千鶴の態度は気にも留めない様子で、斉藤は彼女の顔に目を落とすと、眉間に皺を寄せて「まだ顔が蒼い」と言った。

「起きて平気なのか」
「十分に休ませていただきました…いえ。あの、すみません」
「なぜ詫びる」
「…今日の巡察でご迷惑ばかり掛けてしまった挙句、のうのうと寝ていて…」
「そのようなことか」
「そのような、じゃありません。とんでもない失態です」

ふぅ、と溜息を吐かれる。千鶴は消えてしまいたくなった。
いよいよ居た堪れなくなって、千鶴は何故こんな時間に目を覚ましてしまったのか、いっそずっと目覚めなければ良かったと悔いる。
しかし斉藤は言った。あの程度、俺にとっては瑣末なことだと。

「アンタが頭を下げることじゃない。侍じゃない人間が修羅場に出くわせば、ああなるのは当然のこと」
「だけど、せめてご迷惑にならぬよう、もっと上手く立ち回ることも出来たろうに」
「力のない人間が勝手に動き回ってもより迷惑なだけだ」
「…そう、ですよね」
「新撰組は雪村千鶴をなよ竹の姫のようには扱わない。だが、飯炊き女として雇った訳でも、隊士にしたかった訳でもない。できないことをやろうとするな」
「はい…」
「第一、アンタはあの場にいて血の気に当てられて気を失わなかった。それだけで、大したものだろう」
「はい………え?」

最後の言葉に、千鶴はぽかんとした。言葉の槌で地中深く沈められていたような気がしていたのに、最後に微妙に褒められ、た?
斉藤はそんな千鶴に構わず、「水が飲みたいのなら持ってこよう」と言いだした。当然、千鶴は焦る。

「斉藤さんにそのようなことをさせる訳には…!」
「そんな青白い顔で出歩こうとするな。部屋で待て」

制止も遠慮も通じない。さっさと踵を返して廊下の角に消えてしまう。
千鶴は障子にもたれるように、部屋と廊下の境にずるずると座り込んでしまった。
混乱しきりだ。斉藤との会話は、突き放されているのか、庇われているのかよく分からない。

(もしかして、心配して気遣ってくださっているのかしら…?)

だとしても非常に、心の臓に悪い構い方だ。
千鶴が逡巡している間に、斉藤が戻ってきた。早い。
彼は湯呑みを右手に、そして…何故か左手に手桶を持って戻ってきた。
彼女が座り込んでいるのを見ると更に具合が悪くなったのかと尋ねてきたので、慌てて首を振った。立ち上がろうとすると、そのままで良いと止められる。
そら、と差し出された湯呑みを、千鶴は背を伸ばして両手で受け取った。千鶴の態度は、どこの神事だと訊きたくなるような恭しい手つきだった。
待望の水を含む。乾ききった喉には甘露のように美味かった。

「ありがとうございます。本当に、ご迷惑ばかりお掛けして」
「この程度、迷惑でもなんでもない。まったく、お前は気遣いが過ぎる」
「…すみません」
「詫びるな。……いや、ちがう」

斉藤は首を振って、それから少し黙った。やがて、廊下に腰を下ろす。
相対する形になって千鶴は詰まった。斉藤は構わぬ様子で口を開く。

「雪村」
「は、はい!」
「俺は言葉が足りない質だ」
「…………は、い?」
「腹で十、思ったことを一しか口にしない。それで必要なことは大抵は伝わると思っているし、実際そうだった」
「そ、そうですか…」
「だが、たまに一に対して間違った十を相手が受け取ることがある…アンタのように」
「え…」
「変な勘繰りをするな。誤解をするのは勝手だが、それで不用意に落ち込まれるのは本意ではない」
「それは、その、…すみません」
「だから詫びるなと…もういい」

言い掛けて、止めた。これでは堂々巡りだと気付いたらしい。
間をおいて、斉藤は傍に置いてあった桶を千鶴の前に置いた。どん、と重たい音が静かな夜に響く。

「アンタにこれを渡そうと思っていた」

消え入らんばかりだった千鶴から、え、と驚きの声が漏れた。
おずおずと桶を覗き込む。中には水を吸って茂る緑の葉と、数々の白い…。

「花?」
「先刻、件の現場の検分に行った。近くの垣根に咲いていたのがあまりに見事だったので、家主に頼んで切り分けて貰った」

そう言って、斉藤は桶に手を入れ、一輪手折る。片方の手で千鶴の手を取ると、白い花をそっと、掌に載せてやった。
花を顔に近づければ、甘い香りが飛び込んできた。月明かりに滲むように、優しく漂う花だ。

「夕化粧、ですね」
「…名は知らぬ」
「おしろい花とも言います。夕方から咲く花ですね。黒い種を開くと白い実があって、それを割ると白粉のような粉が出てくるのです」
「好きな花だったか?」
「はい。それにとても、懐かしいです。子供の時分、近所の庭に咲いていて、友達とよく遊びました」
「それなら、いい」
「?」
「血の匂いは慣れぬと吐き気を催す。少しでも心が晴れたなら、花も咲いた甲斐があるだろう」
「…ありがとう、ございます」

揺るぎない声に怯むばかりだった千鶴は、おずおずとだが今日で一番、確りと斉藤を見た。
月光の下、端正な顔にふたつ、静かな色の瞳がある。千鶴ははっきりと思った。

(…私はいったい、此処で何を見ていたのだろう)

血は怖い。人が命を落とすのを見るのは悲しいし、断末魔の叫びは勿論、倒れて二度と動かぬ姿を見れば身が竦む。
だが、それでも此処は。この人たちは。
そして、目の間のこの人は。

月が朧に翳りだす。
僅かな光を頼りに斉藤の顔を見つめて、…何故そんなことを尋ねたのかと千鶴はあとで思うのだが、彼女は口を開いた。

「斉藤さん」
「なんだ?」


「…私は、ここにいても、いいんでしょうか?」


斉藤は。
彼曰く、思ったことを一しか言わない男はこう答えた。


「おまえは、ここにいるだろう」


千鶴はただ、頷いて頭を下げた。

「…ありがとうございます」

礼を口にすると、斉藤は怪訝そうな顔をした。礼を言われるようなことはしていないとでも言いたげだ。

「お花のお礼です」
「それは既にもらったが」
「でも、ほんとうに嬉しかったから。何度でも言います」
「…勝手にしろ」

ふい、と斉藤が横を向いた。気を悪くしたのか、照れているのか、月明かりではよく分からない。
千鶴は微笑んだ。そうしないと泣いてしまいそうだった。
沖田のように茶化す口ぶりでも、井上のように優しい訳でもない。
だが斉藤がくれた答えは、今このとき、なによりも千鶴が欲しい言葉だった。


桶のなかの夕化粧は明晩には花を閉ざす。そういう種類の花だった。
しかし今はただ、その花はふわふわと柔らかな香りでふたりを包んでいた。