グライダー

2.ひとつ、ふたつ

「【鬼のかく乱】って、きっとこういう時に使うんだよなぁ」

「…平助君、言い過ぎだよ」
「でもさー、お前らとは大概付き合い長いけど、こいつがこんな風にダウンするの見たの、はじめてだぜ?」
「薫はいつも皆勤賞ねらっていたの。健康管理も昔から徹底してて、すっごくしっかりしてるのよ」
「おまえは大丈夫なのか?こんな近くで看病して感染ったら洒落になんねぇぞ。喉が痛かったり、頭がボーっとしたらすぐ言えよ」
「ありがと、平助君。でも私、からだは丈夫な方だから」

「うっるさいなぁ」

不快そのもの、といった声音が平助と千鶴の会話を遮る。
まずい。二人が慌てて寝台の方を見れば、額に冷却シートを貼り付けた薫の、最高に不機嫌な瞳が二人を睨んでいた。

「いつもいつもそれこそ毎日思うし三日に一度は口にしてるけど、ほんとおまえ達って馬鹿なの?熱を出して寝ている人間の傍でペチャクチャ喋るってどういう了見?そもそも平助に至っては俺の部屋にどうしているの?朝から失礼じゃない?入室の許可を出した覚えはないけど?幼馴染の特権だとか言ったら殴るからね。千鶴はどうかは知らないけど、お前と俺の関係を正確に表すなら腐れ縁だから。で、平助、「気遣い」って言葉は知ってる?そこの棚に辞書があるから引いてみなよ。分かったなら返事しなよ平助」

顔色の優れない薫だが、唇の散弾銃がきっちりと火を吹いた。
この精度を展開出来るのは、町内広しといえど、彼と沖田総司くらいのものである。
怒涛の口撃に千鶴は肩を落とし、平助はいきり立った。

「ちょ、薫!俺だけ名指しかよ!」
「千鶴には昨夜、「誠意」について調べさせたからね。特別に免除だ」
「調べさせたのかよ!そんで、素直に調べたのかよ千鶴!?」
「だって、調べないとお薬飲まないって言うから…」
「そっかー、って違うだろ。薫テメー、おまえこそ辞書で「感謝」って調べろ!」
「へ、平助君、落ち着いて!まだ薫、熱が高いから!」

千鶴の制止に平助が「うっ」と詰まる。
妹の御節介に薫は皮肉を返そうかとも思ったが、本調子ではないせいか、上手い言葉が出てこない。とりあえず溜息を吐こうとしたら、間違って豪快に咳が出た。咽込んで、思わず体を横にそらす。ゴホゴホと咳が出るたび、背中も肺も痛かった。
その様子に、慌てて千鶴が薫の枕元に寄った。咳が止むまでそっと背をさすってやる。ようやくそれが落ち着くと、今度は手を伸ばして兄の額にあった冷却シートをていねいに剥がした。そっと、額に額を押しあてて…顔を顰める。

「薫、熱が上がってる。ポカリ飲もう?」
「いらない」
「ダメだよ。水分取らないで大丈夫なの?」
「ダメだから休むんでしょ。ほら、おまえはさっさと学校へ行ったら?」
「…いや。こんな薫を一人で残すのは心配だもの」
「余計なお世話。いいから、そこの平助と行きなよ。風紀委員の妹が遅刻常習者になるなんて許さない、からね」

最後の方の声は弱弱しくなってゆく。
平助の前で千鶴は、でも、だけどを繰り返し、薫は放っておいてよの一点張りだった。
双子の遣り取りを見ていた幼馴染は、己の言動を反省した。薫は本気で調子が悪い。だからいつもの覇気が無い。

千鶴は基本的に兄の薫の指示には従う。
が、相手を思い遣ったりとか、間違っていると思ったことに対しては梃子でも動かない時がある。薫もそういう時は、三度に二度は負ける。状況は其々異なるが、小さいころから繰り返し、何度も見てきた風景。
だから、こういう時に平助が出来ることは一つしかない。
出来る限り、薫の兄としての面子を守ってやること。それだけだ。

「千鶴、行こうぜ」
「ごめん平助君。私は今日は…」
「おまえ、薫の分もノート取ってやらないとじゃん。俺が書いてもコイツ、絶対受け取らねーよ」
「悪いけどシュメール語はまだ未修だからね。読めないんだ」
「ほら聞いたろ?って薫、今のは直ぐ分かったぜ。俺の字が読めねーほど汚いって意味だなコラ」
「良かった、日本語は理解できるんだね」
「な、千鶴!こんだけ厭味が言えるなら全然平気だぜ、絶対!」
「え、え、でも、だけど」
「今だけは平助の意見に賛成。じゃあ、俺は寝るから」

そう言うと、薫は頭から掛布をかぶった。出ていけという意思表示だ。
ほら、と平助に促され、渋々、千鶴は立ち上がった。
それでも足は重く、寝台でサナギとなった兄に向かって、ポカリは枕元にあるよ、おなかが空いたら冷蔵庫にオレンジ寒天作ってあるからね、お粥も用意してあるよ、と色々言い募った。それはあまりにも兄思いな妹の健気な姿で、平助は内心、ホロリとさせられた。一方でこんなブラコンな千鶴の姿、総司に見せたら怖いだろうな、とも思った。

とうとう扉の閉まる間際に「走って帰ってくるからね!」と千鶴は言ったが、それでも薫は何も答えなかった。倦怠感に応えるのが億劫で仕方なかったので、無理やり目を閉じていた。


ライン


静謐な白に、淡く薄付いた紅の花弁が辺り一面に広がっている。
桜だ。桜の花が、散っている。

こんな戦場でも、花は咲くのか。
いや、こんな戦場だからこそ花が咲くのか。
あまりに凄惨な風景を少しでも滲ませるために。

きっとそうに違いない。
探し求めていた存在を前に南雲 薫は、散りゆく花の中、そう思った。


遠くで砲声が聞こえる。
発砲と剣戟、悲鳴もそう離れていない場所で繰り広げられている。
函館は五稜郭を舞台とした、新政府軍と旧幕府軍の最後の戦争。

だがそれも、間もなく終わる。
多くの古いものを排除して、新しい血に濡れた人間の時代がはじまるのだ。
…それでも、此処は嘘のように静かだった。
すべてが嘘のように、切り取られていた。

桜はきっと、隠そうと、覆ってしまおうと必死だったのだろう。
花弁に埋もれるように、一人の少女が蹲っている。
眠ってはいない。とうに死んでいた。白い顔とは裏腹に胸部が赤く滲んでいた。銃傷だ。それが致命傷となったのだろう。不運な奴、と薫は思う。ただの人間とは違い、他の場所を撃たれたのであれば、生き残れたろうに。心臓に命中してしまうとは。
たった一発の不運が、彼女の命を奪っていた。

少女の腕は何かを守るように、抱きしめるように組まれている。
しかし、その手には何も握られていない。
彼女が何を守ろうとしていたのかを、薫は直ぐに悟った。
羅刹に落ちた壬生の狼。その数少ない残党の一匹。

(風に、吹かれてしまったのか)

辺りを見回せば、少しだけ離れた所に面識のある鬼の男が倒れていた。風間のはぐれ鬼だ。かつては鬼の一族の頭領として名を馳せた男だが、私怨から血族を抜けたと聞いている。花弁では隠しきれぬ夥しい血の海に沈んでおり、この距離でも、絶命しているのは明らかだった。

--- 相討ち

そんな言葉が頭を過ぎる。
知らず、嘲笑が浮かんだ。

(鬼の誇りも、武士の魂なんぞも、興味はない)

薫は再び少女に目を遣る。
暫く立ち尽くしていたが、やがて微かに震える足を(そう、震えていたのだ。信じられないことに!)叱咤して、亡骸の傍に膝をついた。額に汗が滲んでいる。唇が戦慄くのを感じ、動揺している自身を自覚した。情けなかった。

壊れ物を抱くように、少女を腕の中におさめる。
抱き寄せれば血が衣を汚す。その身はまだ、微かに温かかった。
額に張り付いた髪を払ってやり、死に顔を覗き込む。
何の憎しみも悲しみもない、子供のような稚い死に顔だった。

「…不思議だね」

ぽつりと、薫は呟いた。既に事切れている彼女に囁く。
本当は少女の歳ではないのに、男装をしている所為か、どうしても少女にしか見えない。

「俺はね、お前に言ってやりたいことが沢山あったんだよ。わざわざ土佐から上京して、のうのうと生きているお前を見た時から、いつか酷い目に遭わせてやろうと思っていた。なのにお前は新選組なんぞに捉われて、どんどん勝手に行ってしまう。お陰で。追いかける為に散々苦労したよ。それでも、せめて死に様を嗤ってやろうと思って、こんな北の果てまで来たのに」

地に触れていた彼女の手を取り、握る。
指先は氷のように冷たかった。

「今の俺はただ、空虚だよ。なにもかも失くしてしまった、……千鶴」

ちづる。

やっと呼んだ名前に答える声はない。
自分と同じ年、同じ日に同じ女の腹から生まれた、片割れの女鬼。
彼女はとうとう、生き別れた兄である自分のことを知らぬまま死んだのだ---。


ライン



「薫のバカ!」

突然の大声に、薫は覚醒した。
千鶴の、十数年共に過ごした、よく知っている声だ。

視線を向ければ妹が仁王立ちして此方を見下ろしていた。
リンゴのように赤い頬をこれ以上にない程に膨らませて怒っている。

「薫のバカ。大バカ。信じられない、本当にバカだわ」
「…いきなりなに。頭グリグリするよ」

掠れた声で返せば、千鶴は咄嗟に後ずさり、両手で頭を庇った。
条件反射のようなものだ。薫は妹の薫と腐れ縁の平助には、何か失敗する度に、こめかみを指の節で捻じるように押して制裁を加えている。加害者は経験が無いので知らないが、被害者曰く、ものすごく痛いらしい。
それでも、珍しく怒りが収まらなかったのか、だってだって、と千鶴は言い募る。

「携帯に出てくれないから、心配して早退してみたら…ソファで寝ているなんて。もう、なに考えてるの!」
「………ソファ?」

そう言われて、薫はやっと自分の状況を把握した。
千鶴と平助が登校した後、直ぐに吐き気に襲われて一階のトイレに駆け込んだのだ。そこで吐いて、そのまま階段を登るのが億劫で、もうどうにでもなれと自棄でリビングのソファに突っ伏した。そこで再び意識を失くしていたらしい。

(おまけに最悪な夢まで見た。最近は随分と忘れていたのに)

ち、と舌打ちしたら、「怒ってるのはこっちだからね!」と憮然とした千鶴の声がキッチンから響いた。戸棚や冷蔵庫を開ける音が聞こえるから、氷嚢か飲み物でも支度しているのだろう。

あいつの地獄耳はたまに凄い、と内心で毒づいてから、薫はリビングで落ちていた理由を探した。正直に話すことは己の不利益しか招かないが、この妹は何か言わなければ三日はブゥブゥ文句を言うのだ。面倒くさい。
ポカリを満たしたグラスを手に戻ってきた千鶴の顔を見て、言い訳は止めた。怒っているというよりも、泣きそうなのだ。より質が悪い。
薫は素直に謝ることにした。

「ごめん。心配かけた」
「……ベッドにいなくて、リビングで見つけた時は心臓が止まるかと思ったんだからね」

これは効果覿面だった。
この兄が妹に詫びることなど、滅多にどころか、盆と正月よりも回数が少ない。遣い所の有用性を熟知している。千鶴の表情は未だ憮然としていたが(大方、ずるいと思っているのだろう)、それでも薫にグラスを差し出す手は優しかった。
ソファから半身起して、それを素直に受け取る。
甘い清涼飲料水が、苦く酸っぱい口の中を綺麗に流した。

「それを飲んだら、ベッドに戻ってね」
「ん」
「ごはん、なにか食べられそう?」
「いらない。食べたら吐く」
「吐いたの!?」
「……いや、胃がまだ気持ち悪いだけだから」

千鶴は困ったように笑った。
兄の強がりをすっかり悟ってしまったのだろう。

薫は苦虫を噛み潰したような顔をした。
今日はどうも、ダメだ。誤魔化しが利かない。


--- 目を閉じれば、まだ微かに桜の花弁が見える。


「…ねぇ、千鶴」

調子が狂った果てに、何故か口をついて出た。
ああバカバカしい。
本当に、風邪など引くものではない。調子が狂うばかりだ。

「俺は、お前のなに?」

それでも、薫はグラスを持っていない方の手を伸ばしてしまう。
何かが落ちてくるのを待つように、掌を差し向ける。
求めの応えは直ぐにあった。

その手をそっと両手で包み込む、千鶴の温かな掌、指先。
彼女はどこで覚えたのか、大人びた顔で微笑んだ。

「薫は私のお兄さん。一緒に生まれて、一緒に育った、たった一人の」

欲しい答えと共に、こつんと、額と額がぶつかる。
冷たさが心地良いと思った。

「……そうだよ。不本意ながら、ね。だから、」



(遠い昔なんて知らなくていいよ)
(千鶴は、俺が、守るから)

(お前は俺のたった一人の、妹だから)










「あ。ねぇ薫、栄養ドリンク貰ったんだけど飲む?」
「栄養ドリンク?誰から?」
「山南さ…先生から」

「…いらない。平助にくれてやって」





(ずっと守ってあげるのに、思い出すなんて、馬鹿だよ)