箱庭の姫君

1.双六人生

(いじわるな人、というのは、)
(たぶんきっと、沖田さんのような人間のことを言うんだわ)


壬生の屯所。新選組で世話になって、一ヶ月目のこと。
与えられた自室で、千鶴は少々うんざりした気持ちで正座していた。
彼女の憂鬱の種は、今、返すことも許されぬままに両手で抱えている、桐の箱がひとつ。
そんな千鶴の様子すらも楽しいのか、差し向かいで楽しそうに胡坐をかいている沖田はニコニコとお天道様のような笑顔を浮かべている。

彼が昼なら千鶴は夜。
真反対の感情が、小さな部屋でひしめいていた。

「千鶴ちゃん、どうしたの?嬉しいでしょう、嬉しいよねぇ?」
「はぁ…いえ、あの」
「京の都でも一番人気の店で買ったんだよ。この僕が、わ・ざ・わ・ざ、非番の日に時間を割いてまでね。女の子はこういうものが好きだと、近藤さんが君のこと気にしていてね。あのひと、あれでとても女性への心遣いが細やかなんだよ。って、あっれー、浮かない顔をしてるなぁ。僕はおろか、近藤さんの嗜好が間違えているなんてまさかそんな」
「う、嬉しいです!はい、とっても!」

口は笑っているのに目は醒めている。そんな顔でじりじりと迫られては、もう自棄だ。
言わされていることを百も承知で、千鶴はこくこく頷いて礼を尽くした。


ライン


部屋から出るなと閉じ込められては、暇で仕方ないでしょう。
不意にふらりと現れた沖田は、非常に機嫌が良かった。
未だ慣れぬ環境と周囲に委縮し恐縮しきりの千鶴に、贈り物だよと言って、箱をひとつ寄越したのだ。

曰く、一人遊びの道具だよ。
箱には立派な墨字で、「江戸花見双六」と書かれていた。

それが何であるか、知らない訳がない。
江戸で育って、絵双六で遊んだことのない子どもはいない。子どもは勿論、武士も町人もよく遊ぶ。千鶴も子どもの時分には父や友達と数え切れぬほど興じた。千鶴は道中双六が好きだった。もっとも人気の高い双六で、東海道五十三次をマスに見立てて、振ったサイコロの目で駒を進める。江戸の日本橋から始まって、京都の京橋に最初に上がった駒の主が勝ちだ。

千鶴の記憶が確かなら、双六とは【複数の】気心の知れた相手と行う遊びだった筈。
しかし沖田はつい先ほど、こう言ったのだ。
一人遊びの道具だよ、と。

「いつまで眺めているつもり?遠慮せず、ほら、開けてごらんよ」
「はぁ…失礼します」

促され、しぶしぶ箱を開ける。
中には折り畳まれた紙と小さな駒、そしてサイコロがていねいに収められていた。

沖田が持ってきたのは、江戸の町を舞台とした双六だった。
日本橋から始まるのは道中双六と同じだが、こちらは江戸中の花見の名所をぐるぐると回って見物し、最後にまた日本橋に戻ってくる趣向になっている。八重や一重、彼岸桜など、様々な桜を緻密な絵で描いており、なかなかに贅をこらした双六だった。駒はちりめんで作った小さな紙人形で、男と女で複数用意されている。

「かわいい…」

先ほどの経緯も一瞬忘れて出た素直な感想が、それだった。
千鶴だとて、年頃の娘だ。小さな細工物を見れば愛しくなるし、顔も自然と綻んでしまう。

「まあ、当然の反応だよね」

満更でもない顔で沖田が言う。
しかしすかさず、「お礼はどうしたの、千鶴ちゃん?」と厭味でちくりと刺してきた。
ありがとうございます、と慌てて千鶴が頭を下げる。

「でも、こんな結構なものを私のような厄介者が頂戴してよいのでしょうか」
「厄介者なのは事実だけど、こんな女々しい代物、他に渡す相手もいないよ」
「たとえば、永倉さんとか…」
「…なんで、よりにもよって新八さんなの。あの人が桜巡りの双六してる様なんて、考えただけで気持ち悪いよ」
「いえ!その、花街のお姐さんに差し上げれば喜ばれるのではないかと…」

花街は想像もつかない世界だ。江戸にも京にも存在は知っていても、千鶴は足を踏み入れたことすらなかった。
ただ、女人の気配が千鶴以外にない新選組では、そういう場所の需要があることは分かる。此処に厄介になってまだひと月を過ぎたばかりだが、それでも時折、夜半、永倉や原田が島原に行くと言う声を聞いた。しかし。

「ああ、そういうこと。生憎、ああいう商売の人は簪とか金子とか、もっとキラキラした代物の方が喜ぶよ。こんな物を新八さんが送ったら、そりゃ笑顔で受け取ってはくれるさ。でも、客が引けたあとで巫山戯た浪人上がりと嗤われて、丸めて放られ捨てられて、お終い」

沖田に「分かっていないねぇ」と肩を竦められて、千鶴は益々小さくなった。
飄々としているのに容赦ない。…どうにも苦手なのだ、このひとは。

そっと箱から駒のひとつを取り出して掌に載せてみる。
千鶴が好きな色の着物を着た娘の紙人形。雛遊びが出来そうな可愛らしさだが、独りきりの有様では、まるで今の千鶴そのものを模したようで切ない。考えすぎかもしれないが、流石にひと月も外に出れぬと、鬱々しい気持ちで塞がれる。
はぁ、とため息をついた千鶴に、沖田ののんびりとした声が掛った。

「だからね。これは、千鶴ちゃんの物だよ。部屋に居るだけなんだから、暇でしょう?」
「えーと、あの、沖田さん。ひとつ、伺いたいのですが」
「なんだい?」
「私、双六はこれまで、友達や家族と遊んでいたんです」
「僕も近藤さんと遊んだよ」
「だけど今、私は一人です」
「そうだね。のこのこ京都まで来ちゃった所為で、大変だとは思うよ」
「ありがとう、ございます…あ、いえ違うんです。そういう意味じゃなくて」
「回りくどいなぁ。だから、なに?」

「沖田さんは、私がひとりと知って、双六を下さるんですよね……?」
「うん!時間を潰すのに丁度良いかと思って」

そして、いっそ朗らかに堂々と、止めの言葉が刺し込まれた。

「独り双六、きっと楽しいよ。僕はやったことないし、一生分かりたくもない遊びだけど」

(いじわる、いじわる、意地悪…)

千鶴は心の中で三度罵った。
このひとは最初から、子どもの残酷な遊びのように中途半端にこちらを構おうとする。
いっそ他の隊士のように、放っておいてくれた方が幾らか良かった。
もし、沖田が今日、箪笥の角に小指をぶつけるくらいの不幸に見舞われたなら、それはきっと千鶴の想いを神様が汲んで下さったに違いない。大怪我をして欲しい訳ではないから、せめて心の中でそれくらい願うことは許されようと、思った。

「ありがとう、ございます…」
「お礼を言うまでに間があったね。どうせ、僕の意地が悪いとか考えてたんでしょ」
「そ、そんなことありません!(意地悪なうえに怖い!)」

ふぅん、と鼻で唸って、沖田はやっと腰を上げた。ようやく帰ってくれるらしい。
かと思えば、立ったまま不意に千鶴を見下ろしてくる。強い眼差しが、じりじりと無言で千鶴を焼く。
まだ何かあるのだろうか。手の中の紙人形を知れず握りながら、千鶴は悲しさと不安の気持ちで彼を見上げた。

「あのさ」
「はい」
「江戸の桜って綺麗だよね」
「はい」
「新選組はね、みんな、桜が好きなんだ。君は?」
「私は江戸の桜しか知りませんが、桜はとても好きです」
「その双六さ、いろいろな桜のことが書いてあるんだよ。たくさん遊べば、随分と桜に詳しくなるから」
「はぁ」
「どうせ時間は売るほどあるんだからさ、せいぜい励みなよ」
「……はい」

見下ろす千鶴はこちらの意を汲みとりきれなかったのか、訝しげな顔をしている。
馬鹿な子だなぁ!と、心の底で呆れつつ、それでも総司は言ってやった。

「ま、でも良かったよ」
「?なにがですか?」

「君も桜が好きなら、いつか京の桜も一緒に見れる日が来るかもしれないし」


じゃあね、と言い捨てて千鶴の部屋を出る。
突然入ってきた時と同じように、ぴしゃりと障子を閉めた。


ライン


無駄な時間だった。

沖田は独り、呟いた。
そもそもが、らしくもない御節介なのだ。いくら尊敬する近藤に頼まれたからと言って、厄介以外の何者でもない娘に構うこと自体、暇つぶしでなければ有り得ない。沖田は確かに意地の悪いところがあるが、女を嬲りたい訳ではない。当初ならともかく、花がしおれてゆくように、日に日に弱くなってゆく娘を見ることが億劫に感じていた。

今後はより、そして極力、千鶴の元を訪ねる真似はするまい。
内心でそう決めて、廊下を歩いていたところ、ガラリと障子が開いた。


「沖田さん!」


千鶴の声だった。
振り返ると、赤く上気した頬の彼女が沖田を見ている。
此方が良いと言う時しか出てはならぬと言われている為か、律儀に部屋からは出ず、顔だけひょっこりと覗かせていた。

「なに?もう用はないけど」
「私があります!沖田さん、あの、私、がんばります!」

廊下中に響く声で、千鶴は言った。

「お心遣いに直ぐに気付かず、申し訳ありません。桜、たくさん覚えます。他にも沢山、頑張ります!それに、沖田さんのこと、意地悪とか箪笥の角に小指ぶつけちゃえばいいとか、もう思いませんから!」
「…ちょっと待って最後の台詞は聞き捨てならないんだけど?」
「とにかく、私、負けません!皆さんと京都の桜が見られるように、がんばってみます!どうもありがとうございました!」

言いたいことを言って、千鶴は障子を閉めた。
暫く呆気にとられたものの、沖田は笑った。厭味でも皮肉でもなく、可笑しくて笑った。
そして、まだまだ千鶴の元を訪ねるのは悪くない、と思う。
沖田は馬鹿は嫌いだ。しかし、真直ぐな気性の人間は嫌いではなかった。


去ってゆく足音に、部屋の千鶴はホゥ、と安堵の息を漏らした。
つい口を出てしまった本音に、怒られると思った。どうやら杞憂だったらしい。

まだ、鼓動が収まらない。沖田の言葉を理解した瞬間、胸に熱いものが込み上げてきた。
気付けば衝動的に障子を開けてしまっていた。

嬉しかったのだ。

明日をも知れない緊迫した状況のなかで、未来の話を他人からされること自体が少ない。
増して、それが沖田の口から出てきたことが信じられなかった。

安心したら、ふと、手の中の紙人形の存在を思い出した。
そういえば、勢いづいて握りしめたまま、沖田に話しかけてしまっていた。慌てて拳をそっと解く。
小さな駒は幸い、特に目立つ皺もなく綺麗なままでその姿を維持していた。
鮮やかな色の紙人形を、今度は優しく両手で包む。
千鶴は淡く笑みを浮かべて、そのまま祈るように、そっと額にそれを当てた。


出来ることを探してみよう。
千鶴は久しぶりに前向きな気持ちで、そう思った。