グライダー

1.桜のある坂


※「随想録」で登場したSSL設定(山南が養護教諭、千鶴が学生)を借りた捏造話です
※「薄桜鬼」の登場人物が転生した=SSLの世界という認識です。
※ 但し、前世の記憶を持っているのはごく僅かなメンバーだけです。
※ 千鶴は土方ルートを経たことになっています。


ライン



季節は春。
遅咲きの桜が、ようやく七分に花を咲かせた頃だった。

広大な敷地を誇る薄桜学園の、本校舎から歓迎会の会場となる講堂へ続く道は緩やかな桜の坂となっている。新入生歓迎会を前に、大移動が始まっていた。数多の生徒、上級生に新入生、そして彼らに比べればごく僅かな教師たち。皆、同じようにさざめきあって坂をゆるゆると登ってゆく。

養護教諭の山南敬介もまた、そのなかの一人だった。
形だけの出席、内心では億劫なことだと思いながらも、行き交う度に生徒達が頭を下げて会釈をする様子に笑顔で応える。近藤校長の明朗な教育方針の下、生徒にその精神が行き届いているのを実感するのは心地よいことだった。

ふと、山南は足を止めた。少し先に知った顔を見つけたのだ。
直感する。ああ、彼女だ。

花曇りの空の下、道の端で少女は眼前の桜を見上げている。
表情までは窺い知れないが、桜を模した胸章から、彼女が新入生であることが分かる。
彼女は長いこと桜を見ていたが、やがて意を決したように手を伸ばし、何かを受け止めるように掌を広げた。しかし、桜はまだ七分だ。強い風もなく、花弁が落ちる気配はない。

「散り桜には、少し時期が早いと思いますが」

ぴくりと、少女の肩が震えた。
穏やかな色を帯びた山南の声が重ねて窘める。

「そんな悲しい顔をしても、貴女のために花は降りませんよ…雪村君」

彼女はゆっくりと腕を下ろし、声のした方に顔を向ける。
はじめて二人の目が合った。
花曇りの空、辺りは穏やかに楽しそうに行き交う人の流れのなかで、そこだけ時間が止まったようだった。少女は信じられないものを見るような、驚きと悲しみをない交ぜにした表情を浮かべる。そして。

小さく、貴方なんですね、と呟いた。
そしてかつてそうしたように、深々と頭を下げて礼を取る。

「お久しぶりです…山南さん」

胸章の下には女性らしい繊細な字で名が書かれていた。
雪村千鶴。
その名を認めて、山南は知れず、心の内でため息をついた。


(偶然とはおそろしい)
(いや、悪戯めいた必然かもしれない)

(やはり、姿はおろか、名前すら変わっていないのだ、私たちも。そして彼らも。)


ライン


再会から3週間が経過した。

あれから雪村千鶴は、山南に会いに保健室へと足を運ぶのが常となっていた。歓迎会の後のホームルームで率先して保健委員に立候補した彼女は、養護教諭の山南の傍にいても障りのない理由を手に入れていた。
「病弱どころか風邪も滅多に引かない質なので、こうでもしなければ保健室に正々堂々と入ることもできません!」と胸を張って彼女は言った。そういった手腕の迅速さは山南も好ましく思うところで感心する。

猫がお気に入りの場所でうつらうつらとするように、彼女は山南となるべく共にいたいようだった。
一方、山南も特にそれを咎めず、当り前のように受け入れている。彼の方から千鶴に保健委員として必要な雑務を任せたることもあれば、今日のようにただ茶を飲むだけだけの日もある。そこまで懐かれるだけの間柄だったか、むしろかつては極力こちらを避けていたではないか等と無粋を働く気は無かった。何も確信には触れぬまま、お互い、とりとめもない時間を共有していた。


「思い出されたのは、いつですか?」

その言葉がようやく千鶴の口から出たのが、3週間目の今日である。
放課後の保健室。未だ新しい感のある青いブレザーを着た千鶴は、百年も前からそうしていたような慣れた手つきで茶を山南に差し出すと、座る彼の脇に立ってそう尋ねた。窓から見える景色をぼんやりと眺めていた山南は茶を受け取り、一口啜った。美味しいですね、と笑う。

「今も昔も、茶の味というものはさほど変わらないものですね」
「ありがとうございます」
「それとも、君の淹れ方が変わらず上手いのでしょうか?」
「どうでしょう。よく分かりません」
「分からない、とは?」
「…比べてくれる人は、山南さんしかいらっしゃらないから」

春の風がカーテンを揺らし、室内を通り抜ける。開け放したままの窓からはあの日出会った桜の坂道が見えた。
花の命は短いもので、既に散り桜になっている。ここ数日は風が強く吹けば、保健室にまで花弁がはらりひらりと届いた。

「先ほどの質問ですが、」

グラウンドで野球部が活動しているのだろう、ボールが金属バットにぶつかる小気味良い音と、檄を飛ばす監督の声が遠く聞こえる。
顔を外に向けたまま、山南は口を開いた。

「私の場合、生まれついて覚えていた訳ではありません。養護教諭の採用面接の際に近藤校長と会いまして」
「やはり校長先生は、」
「ええ、あなたがよく知っている、あの人ですよ。しかし生憎、何も覚えてはいらっしゃいませんが。私の知る限り、昔のことを覚えているのは此処にいる私たちだけのようだ」
「……そうですか」

抑揚のない相槌が打たれる。窓から目をうつせば、千鶴は顔を伏せていて、その表情は伺えない。
山南はただ、困ったように微笑んで、先を続けた。

「あの人の顔を見た途端、頭の中に沢山の記憶が入り込んできた。渦に巻き込まれたように眩暈を覚えて足元から崩れそうになったのを覚えています。走馬灯というのがあるでしょう、きっとあれの逆回しなんでしょうね。…まあ、かなり驚いたものですよ」
「山南さんは、全部、思い出されたのですか?」
「ええ。江戸で剣を学んだことも、新選組の総長として近藤さんや土方君たちと肩を並べたことも、羅刹として血に狂ったことも、みな覚えてます。生まれたのも死んだのも仙台というのは我ながら奇縁でしたが。あれは一体、どういう意図で私の身にのみ起こったのか。不思議としか喩えようがない。転生が実際起こり、そして前世の記憶をも蘇る。決して容易いことではない。一人がもう一人の、かつての自分の一生分を見聞きし、否が応にも自らの糧となるとは…」

喋りすぎたと感じたのか、山南はそこで言葉を止めた。
ふぅ、と息を吐く。千鶴は終始沈黙を守っていた。
そんな彼女に、しばらくしてから「あなたは?」と山南が尋ねた。

「やはり、何かの拍子に記憶を取り戻したのですか?」
「いいえ。私の場合は桜でした」

幼いころから、桜を見ると悲しくなった。
そして夢を見るのです、と千鶴は言った。

「私、薄情な娘で。父様のことよりも先に、新選組のことが夢に出てきたんです。土方さん、沖田さん、近藤さん、原田さん、平助くん、永倉さん。井上さん、山崎さん、島田さん。伊東さんも出てきたし、他の隊士の方も、たくさん。もちろん、山南さん。あなたもいました。最初は背中だけなんです。桜吹雪の中、皆さんが私に背を向けている。微かに見える口元が笑っているのが分かりました。楽しそうにしているのが羨ましくて、幸せそうで、私も追いつこうと走るのに、でも、追いつけない。どれだけ走っても、声をあげても、届かないんです。そんな夢をずっと、見ていました」

やがて夢は数を増し、徐々に沢山のことを思い出したのだという。
父、網道のこと。鬼のこと。変若水と羅刹のこと。
そして、新選組が、彼らが辿った最期のこと。

「夢が本当にあったことだと、はっきりそう思い出したのは、高校に入ってからです。…此処には、皆さんがいますから」
「そうですか。いやはや、しかし、雪村君が居てくれてよかった」


「君とこちらで再会するまで、私はずっと、自分の頭がおかしいのかもしれないと疑っていたのです。知っている顔ばかりだとこちらが懐かしがっても、相手は初対面の反応を返す。前世の記憶を有しているなど、おいそれと口にできることではありませんからね。胸の内を明かせないのは、なかなか苦しいことですよ」
「…みんな、いるのに。山南さんだけなんですね」
「そうですね。皆、確かに居るのですが、ね」

山南は頷く。そう、此処には皆がいる。
かつて幕末の頃、本当の武士になるべく生まれた新選組。時代の大きなうねりの中、桜のように散った命たち。
そのとき、共に戦った者たちが同じ時代、同じ場所に居る。見えない糸に導かれたとしか思えない、懐かしい顔ぶれ。

「ほんとうに、誰も、思い出されないんですか?」
「ええ、誰も」
「沖田さんも、山崎さんも?」
「ええ」
「斉藤さんや原田さんも?」
「近藤さんも井上さんも、永倉くんもダメでしたね」
「…土方さんも、ですか」
「君は、彼のことを慕っていましたね。…残念ながら、彼も覚えていませんよ」

悲しいですか。山南はそう問いかけて、やめた。
かわいらしいと形容すべき千鶴の顔は、はっきりと絶望を浮かべていた。

かつての彼女が少女の頃から土方の背中を追いかけていた。
山南は人と人の係わり、その心配りの方向を見定めるのは得意だった。職務と興味本位から、不幸な形で新選組に身を寄せることになった千鶴の心の変遷も観察していたことを覚えている。

結論からいえば、最初から彼女の目はただ一人、土方歳三に向かっていたように思う。

はじめから恋をするには些か不穏な出会いだったが、土方は心身共に華のある男だった。表向き土方付きの小姓となったこともあって、彼女は特に土方の言葉をよく聞き、彼の背中から多くのことを吸収していた。
一方で、数年間に及ぶ決して短くない時間を過ごしてゆくなかで、彼女は頼りない医師の娘から、凛とした江戸生まれの女性へと成長していった。そんな千鶴を、忙しない生き方をしていた土方も傍から離す真似はしなかった。下世話な意味ではなく、土方が千鶴を女にしたようなものだ。

山南の記憶では、仙台で彼が言切れる瞬間も千鶴は土方と共に在った。
史実では土方は北の五稜郭で散ったことになっている。千鶴の名は当然、表の記録には残っていない。
だから、二人がどのような最期を迎えたのか、それは今となっては、彼女しか知らないことだ。

「私だとて、何もしなかった訳ではないのですよ。思い出してはもらえないかと苦心した時期もあったのです。修学旅行を京都にしたり、土方君を函館出張にむかわせたり、変若水を模した栄養ドリンクを開発して近藤校長以下、各位に配布してみたりと…非常に残念なことですが、どうも反応が薄くて」

山南は千鶴に向かって微笑みかけた。
千鶴は彼の言葉に目を丸くして、それから声を上げて笑った。

「お変わりないんですね」
「なにがですか?」
「面倒見が良いところ」
「ええ、性分なのかもしれません」

その時、外のグラウンドからワァワァ騒ぐ声が響いた。一陣の風が吹き、土埃に苦心しているらしい。
春の強い風はそのまま、桜の花弁を一斉に空高く舞い上げる。
高く遠く飛ぶ花弁は開け放したままの窓から勢いよく入り込み、やがて、はらり、ひらりと落ちてくる。
千鶴が身を屈めた。床に落ちた薄紅の1枚を拾い上げた。宝物のように、両手で大切そうに包み込む。

「…君はいま、幸せですか?」
「はい。たぶん、きっと」

何故、そんな質問をしたのか。
理由も訊かず、千鶴は答えた。そして。

「山南"先生"は?」

千鶴のその問いに、山南は答えなかった。
ただ、遠い昔と同じように、自嘲めいた声音で呟いた。

「桜はもう、終わりですね」

山南敬介は思う。
真実、この世は泡沫、夢のような場所だと。



(夢であれば、まだ救われたのに)